クラブ紹介 漢方研究会

小菅 敏雄

1.漢方の歴史

『漢方』医学とは、古代中国の漢大に発生した中国医学を基として日本において体系が整理され発展してきた日本独特の東洋医学のひとつである。

江戸時代までは日本における医学の中心として発展してきたが、明治時代に入り時の政府は日本の正式医学としてドイツを中心とした西洋医学の導入を決定した。

森鴎外・長井長義らの時代である。それまでの漢方医は明治政府の基では医業が出来なくなり漢方医学は衰退していった。明治43年には和田啓十郎という研究者が「医界之鉄椎一東洋医学復興の理論」を著し漢方医学の優秀さを説いたが時代の流れのなかでは顧みるものもなかった。その後この本に感激した湯本求真が「皇漢医学」を著し漢方医学復興のきっかけとなった。昭和初期になっての大塚敬節・矢数道明先生ら近代漢方の師となった先生方の活躍の場がここに生まれたわけである。

私は昭和45年に明治薬科大学に入学した。縁あって『漢方研究会』というクラブに入会した。その頃漢方薬がブームになりつつあったので、将来のために漢方の知識も必要だろうと考えたからである。1年生の頃には本郷3丁目の古書店には江戸時代の漢方医書が沢山ならんでおり学生の小遣いでも購入出来るくらいの価格であった。それが2年生になる頃(昭和46年頃)には古書店より瞬く間に在庫がなくなり、あってもとても高価な値がついてしまった。新しく漢方の勉強を始めた方が書店に行って漢方関係の医書を棚ごと買い占めたという詰も聞いている。このようなブームになった漢方だったが、医学部を含めた医療系の学部で漢方医学を正式に教える講座は皆無に近かったと思う。もともと太平洋戦争以前に「拓大漢方講座」という個人的な勉強会等で綿々と引き継がれていた漢方医学だったが、昭和40年代になってやっと日の目を見る舞台が与えられることとなった訳である。しかし、その体系的な教育は大幅に遅れていた。

2.栃木県病院薬剤師会漢方研究会の発足

学生時代、クラブ活動として「漢方医学」を学んだ私は佐野厚生総合病院の薬剤部に入局し、病院薬剤師としての生活を送っていた。栃木県病院薬剤師会の活動にも昭和53年ころより参加させて頂いておったが、当時の森下会長より、漢方の知識があるのだからその勉強会を計画するように、ということになり、栃木県病院薬剤師会のクラブ活動として昭和58年5月12日に宇都宮文化会館にて発会式を行った。(参加者70名)。その後同年6月9日に同じ会場にて第一回の研究会を開催した(参加者35名)。

以後、今日現在まで様々な活動を続けている。年何回かの漢方薬の勉強会を中心にして漢方薬メーカーの工場見学等も実施した。平出工業団地にある三和生薬の工場ではトリカブトの花のきれいさと大きさに驚いた。筑波にあるツムラの工場と研究所では漢方を近代的な薬学知識で解明しようとしている研究の成果に感心した。

また、元星薬科大学生薬学教授の伊沢先生が県内にお住居なので先生にお願いして薬草見学会等も何回か開催した。日光地区を中心にして山歩きをし、伊沢先生から薬用植物のご指導を頂き、現場において御講義いただくことができた。漢方に興味のある先生方だけでなく自然を愛する先生方が沢山ご参加いただけ大変盛会であった。

漢方薬の科学的解明も着々と進んできた。副作用がないといわれていた漢方にも甘草や柴胡剤において副作用が報告されるようになり一時的に医療用漢方の市場が縮小した時期もあったが、西洋医学にはない特徴も沢山ある漢方医学は確実にその位置を占めるようになった。

マル漢問題等大きな事件もあったが、今日現在医療現場の病院において漢方薬が当たり前の存在になったのは、このような経歴を持っ私にとっては嬉しい限りである。

今後も栃木県内の病院薬剤師のために、漢方の勉強の場を続けていきたいと思う。

創立五十周年記念誌 栃木県病院薬剤師会 平成13年6月 より掲載